がんばれ!くまてつ

2年前の球磨川大水害で大ダメージを食らったくま川鉄道。全線運休となり1年半バス代行となりましたが、被害が少なかった肥後西村~湯前が昨秋先行して運転再開。流された球磨川にかかる橋梁も国の予算がついてやっと全線復旧が見えてきました。↓

(写真:肥後西村、2022.8)

現在は肥後西村駅の人吉寄りに車止めが設置。未開通区間のほうはこんな感じで廃線跡みたいになってます。↓

(写真:肥後西村、2022.8)

20年ほど前の肥後西村駅はKT-100とKT-200が現役でした。あんまり変わってないなあ。↓

(写真:肥後西村、2000.4)

一番被害が大きかった球磨川第四橋梁は昔はこんな感じ・・・懐かしい始発の3連ですね。↓

(写真:川村~肥後西村、2000.2)

で、現在は無残な姿・・・橋脚もほとんど持っていかれており、簡単な工事では済みません。復興案では従来のガーター橋からトラス橋へ変更し、川床にかかる橋脚を3本に減らして洪水強化する予定。2025年度の完成を目指すということで方針が決まりましたが、完全復旧までにあと3年はかかるってことです。↓

(写真:川村~肥後西村、2022.8)

部分復興したとはいえ、現在の運行は平日ダイヤと土曜ダイヤ、日曜休日ダイヤの3つに分かれ、かなり特殊なダイヤ構成となっています。平日は完全に学生を意識したダイヤ。土曜ダイヤはクラブ活動用というか、お買い物需要的なダイヤ、日曜休日は土曜ダイヤでかつ肥後西村~人吉温泉までの代行バスがない というもの。↓

(写真:あさぎり~おかどめ幸福、2022.8)

車両は水害時に5両全車両床下水没となったんですが、エンジニアさんの努力で現在は5両とも運転できる状態になっている模様。うち、KT-501、502、503の3両を先行復帰させ、あさぎり駅を仮のねぐらとしています。KT-504と505はそのまま人吉温泉にいますが、車検時に先行復帰車両と交換するんでしょうね。3両にしたのはそれまでの最大運行編成(平日ラッシュ時)を踏襲したものと思われます。↓

(写真:一武~肥後西村、2022.8)

先行しての鉄道復旧となったのには、バス代行運行での車両調達難、運転手不足、混雑がひどかったことらしいんですが、被災前の平日朝ラッシュは3両編成でも積み残しが出てたらしく、恒常的に鉄道補完用の代行バスも走っていたそう。国鉄時代は6両編成とかあった記憶があるんですが、急行くまがわが走っているときは朝の人吉方面の列車は全部JR車両だったと思います。こちら写真も朝2本目の列車で急行表記ですが、たしか急行の乗り入れではなく、時刻表上はくまてつ内完結の普通列車とされていました。↓

(写真:木上、2000.2)

そのくまがわ車両と3連の交換風景。まだあさぎり駅が免田と呼ばれていたころ。新駅舎ができて間がなかったころですね。↓

(写真:免田、2000.2)

今回訪問時は夏休みダイヤとなり、平日でも土曜日ダイヤでしたが、鉄道は3両フル編成で運用。代行バスも続行を出して大型観光バス2台と中型バス1台の3台で捌いてました。全線運休時は平日朝のラッシュ時9台のバスを出していたらしいんですが、このあたりをテリトリーとする九州産交のバスも大量水没していたんで、代行といえども手配にかなり苦労したと思われます。↓

(写真:木上~一武、2022.8)

くまてつとほぼ並行する国道219号線は右折レーンのない信号もまだ多く、国道を代替する道も農道の抜け道とあって日中はいつも混雑気味。意外と鉄道のほうが速達性があったりします。人吉盆地には人吉市、錦町、あさぎり町、多良木町、湯前町と行政拠点が隣接してあり、人口も8万人台と小さな経済圏を作っています。湯前線は国鉄の第3次廃止対象路線となって三セク化しましたが当時は輸送密度3000人超えてましたし、そのまま残っても違和感なかったくらい。弘南鉄道や津軽鉄道のほうが厳しい経済環境です。この度の全線復旧は正しい判断だったと思われます。↓

(写真:あさぎり~おかどめ幸福、2022.8)

一方で接続するJR肥薩線はくまてつよりも甚大な被害を受け、かつ、都市間輸送として八代-人吉-吉松-隼人の役割は終わっており、特に沿線住民が少ない人吉市街地を除く八代~吉松については、多額な復興費用をかけて再建する意味があるのかという議論が出てきています。人吉から熊本方面も鹿児島方面も上下4車線の高速道路が早くて便利だし、バスかBRTにて高速を使ったフリークエンシー運行してもらったほうが利用者は楽ちん。富山のアルペンルートみたいに、別にすべてがレールでつながる必要がなく、乗り換えを便利にすればいい。旅行者に対してもパッケージ切符で誘致すればいいんだし、人吉~大畑+αで保存鉄道化してそこそこの運賃徴収すれば採算改善もする。SL必須ならくまてつに走らせる。これくらいの考えしないと次の30年もたないんじゃないかなあ、少子化で税収が減って高齢化で支出が増える時代なんで・・・地域外の人を呼んでお金を落としてもらう。海外込みで・・・ってことなんでしょう。肥薩線復興費用は肥薩線復旧に使わず人吉経済圏で基金的に持っておきたいですね。鉄道かバスかっていう乗り物の種類で分ける時代は終わってると思います。使う側を意識して公共交通として一体的に考えないといけないでしょう。↓

(写真:東免田~あさぎり、2022.8)

・・・てなことで、くまてつはこれからも大事な存在になっていくと思います。・・・で、今回に合わせて古い写真を探したら懐かしのくまてつ風景が出てきたのでご紹介。あさぎり~肥後西村までは今も変わらない田園風景を貫くところ。当時はあさぎり駅は免田という名前でしたが、平成の大合併であさぎり町が誕生、名称変更になったと思います。ただ免田といえば冤罪で超有名な免田事件を思い出してしまいます(これ、ひどい話ですよ)。なので免田っていう事件の名前の悪いイメージも変更理由の1つだったのかもしれません。写真はKT-100+KT-200の2両編成。↓

(写真:免田~おかどめ幸福、2000.4)

こちらもKT100と200の連結。手前がKT-100。100と200の違いはトイレの有り無しと座席構造の違い。車長は小ぶりの16m車で当時軽快気動車と言われた部類。収容人数が少ないので当時はラッシュ時にJR車両も活用していました。ちなみにKT-100、200ともすでに引退しています。↓

(写真:おかどめ幸福~木上、2000.4)

こちらもKT100と200の連結。手前がKT-200。南面はトイレの有無がよくわかります。↓

(写真:川村~肥後西村、2000.4)

16m車だと小さいので基本2両1編成として100+200にしてトイレ付編成にして、朝ラッシュはこの編成の2+2とか2+1だったと思います。今のKT-500シリーズは18m車になり収容力が上がりましたが、朝ラッシュ時は捌くのに3連でもまだつらいみたい。↓

(写真:川村~相良藩願成寺、2000.4)

単行列車って日中は見なかったですね、こちら、どちらかというと貴重な単行列車。↓

(写真:川村~相良藩願成寺、2001.5)

風景はあさぎり以東のほうがのどかになります。花をイメージしたオブジェがある東免田駅・・・↓

(写真:東免田、2001.5)

(写真:東多良木~新鶴羽、2001.5)

(写真:新鶴羽~湯前、2001.5)

(写真:東免田~免田、2001.5)

終点は棒線1線のシンプルな駅。木造駅舎が残るので終着駅らしいいい感じです。現在はこの写真よりモノが増えてしまい周辺の素朴さはなくなりました。

(写真:湯前、2001.5)

とにかく、今は草ぼうぼうとなった肥後西村以西へ無事に走り出せるよう、事故や災害のない順調な復興をお祈りしましょう。がんばれ、くまてつ。↓

(写真:川村~肥後西村、2000.12)