解説

北九州市内を走っていた西日本鉄道北九州線、戸畑線、枝光線、北方線は、合わせて北九州市内線と称され、全長約45Kmに及ぶ路面電車として京都市電廃止後の日本一の路線規模を誇っていました。戸畑線はそのひとつで、路線の大半が専用軌道となっていていました。

北九州市内線の廃止は、当初道路の混雑緩和とモノレール化構想で計画されました。最初のターゲットは北方線(4.9km)で、1980年11月1日付けで廃止。軌間1072mmで北九州線の広軌と違って独立し運用上廃止しやすかったこと、北方の先のニュータウンへの交通アクセスが必要だったことから、いち早くモノレール化対象となりました。

建設期間を経て、路線跡に北九州高速鉄道が開業、小倉~企救丘にモノレールの運行が始まりました。ところが当初の計画と違って旅客が伸び悩みいきなり大赤字に、さらに鉄鋼不況と重なってモノレール化計画そのものが中に浮いた状態となります。

当時の鉄鋼不況は残った市内電車の収益にも響き、西鉄は将来の増収見込みのない市内線の全線廃止を計画。まずはバスやJRで代替輸送できる北九州線の門司-砂津(通称門司線)、戸畑線の大門-戸畑、枝光線の中央町-幸町の計3路線が1985年10月20日付けで廃止されました。

残った北九州線砂津~折尾は旅客も比較的多く、市が「代替交通機関がバスだけで輸送力に問題がある」として存続を希望、モノレール化の検討と併せて協議がしばらく行われます。

しかし、その後も収益は改善せず、また街の景気もさらに地盤沈下。結局旅客減少の歯止めはかからず、砂津-黒崎駅前が1992年10月25日付けでバス転換となってしまいました。残った黒崎駅前-折尾も平行するJRの新駅開業と引き換えに2000年11月に廃止され、北九州から西鉄の鉄路は消滅してしまいました。

※西鉄北九州線(黒崎駅前~折尾)はこちらのページで紹介しています。

思い出
ここでの想い出は、三六(さんろく)に友人の親戚がいて、泊めてもらって北九州を旅したことです。この時この市内線にはたいへんお世話になり、門司へ行ったり、黒崎へ行ったり。若松駅から10円の渡船で洞海湾をわたり、戸畑駅からちんちん電車で帰ってきたりもしました。

なお、この対岸の若松にはかつて北九州市営の路面貨物が走っていて、貨物列車がそのまま路面電車と同じように走るというすさまじい光景を見ることができました。普通の道路をDLがぶっぱしるという、恐ろしいものでした。

PHOTO GALLERY

■工大前~三六

・大門を過ぎてちょっといったところから三六手前までは専用軌道を走っていました。

   -1982.3.26



■三六

・住宅街の中にある、何の変哲もない停留所。西鉄市内線初乗車となった停留所です。

   -1982.3.26



■幸町

・戸畑線から枝光線への分岐駅。デルタ状にホームが作られ、3方向どちらからでも行き来できる構造になっていました。道のど真ん中にあったのが印象的でした。

    -1985.3.19



■幸町~元宮町

・両脇に古い住宅が並ぶ下町らしい雰囲気がありました。

   -1985.3.19



・だいたいこのあたりでいつも列車が並びました。

   -1985.3.19



■元宮町~戸畑

・戸畑大橋を横目に走ります。大きな構造物とチンチン電車のアンバランスさが滑稽でした。終点の戸畑からは道を渡ってすぐの所に若松とを結ぶ10円渡船がありました。

    -1985.3.19





 おまけ

□国鉄枝光駅

・なにげなく撮った写真がこんなに懐かしくなるとは思ってもみませんでした。こんな風景はもう九州ではみられませんね。

    -1982.3.26



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