解説

全列車サボ付だった四国エリアの急行。写真は急行「いよ」 かつての四国の国鉄網と言えば、全線非電化で気動車のボロ車両であふれかえり、墓場と呼ばれるほどの劣悪環境で、その上車両不足から雑形旧型客車も朝夕に引っ張り出される始末とあって、旅客サービスはかなり遅れを取っていました。

近代化を図るべく、四国幹線の電化を本四連絡橋の完成に合わせ計画され、岡山~松山までの電車特急直通化、高松圏と松山圏でのサービスアップなどが盛り込まれました。

JR発足直前の1987年3月23日に高松~坂出、多度津~観音寺の電化がスタート。併せて土讃線の多度津~琴平も電化となりました。坂出~多度津は本四備讃線の工事完了に合わせて電化ということで、完成までは電車と気動車が入り混じる運行が行われていました。

キハ40さえ見かけなかったボロ気動車天国。普通列車はみんなこんな編成でした。 1987年10月2日についに残った区間も電化が完了し高松圏での電車運行が本格化します。観音寺以西の電化工事も引き続き行われ、1990年11月21日に伊予北条~伊予市が先行電化されて松山圏での電車運行が始まります。

1992年7月23日に観音寺から西に新居浜まで、伊予北条~東に今治までが電化。1993年3月18日にやっと高松~伊予市までの電化が完了となりました。

電化されると設備改良等で駅施設など大きく変わってしまうのですが、予讃線は比較的かつての風景を残しています。ただし、2001年5月に移動した高松駅や本四連絡橋開業で大変貌した坂出~丸亀は昔の面影はなくなってどこかの大手私鉄のような雰囲気になりました。

電化の話は土讃線でも持ち上がりましたがトンネル改良や山岳部を行くため列車スピードアップも限界があって投資対効果が見込めないことから、特急列車用に新型DC車両が投入にて速達化が図られました。


思い出

DF50が引退を迎えていました。晩年は旅客列車は引かず、貨物列車専用となってましたね。 実は初めて本格的な鉄道写真を撮りに行ったのが四国。DF50が引退する前で、ボロカメラで必死に撮ってました。海岸寺と大歩危に行きましたが、放置されていた分、国鉄らしい昔の風景が残っていましたね。

電化後は目新しいものもなくなってもう随分と長い間予讃線で写真を撮ってないですね。ギャラリーの写真は骨董品級ばかりですので、当時の国鉄時代をご存知の方は懐かしいかと思います。急行はみんな丸板サボがついてたし、旧客も意外と日中も走っていたりしました。

宇高連絡船もまだあって、18キップ旅行時の駅寝スポットとしても高松は重宝してました。そういや、高知行きボロ客車の快速夜行列車もありましたね。松山方面は夜行急行だったので乗れなかったと記憶しています。高知行きはのちに京都発の夜行列車になりましたが、知らないうちに消えちゃいました。

PHOTO GALLERY

高松

・まだ宇高連絡船があった時代の風景。右から高徳本線、土讃本線、予讃本線という並びで発着してました。真ん中は旧型客車で阿波池田行き。しかし、すごい並びですね~、急行阿波、土佐、いよが並んでます。

    -1983.3.15


・宇高連絡船に接続する最終の夜行急行うわじま1号。乗換えでみんな急いで座席確保です。こんな風景、もう見れなくなっちゃいました…。お尻にこんな荷物車までついてました。

    -1983.3.15



・急行あわ号はいつも0番線ホームから出発してました。0番線にはロングいすがあって、夏場に蚊取り線香をたいてよく駅寝につかいました。今のご時勢、そんなことはできませんね。

   -1983.3.14


・予讃本線夜行は急行で18キップでしか旅行できない貧乏人はこちらの中村行き快速夜行が定番。サボは予讃本線が青、土讃本線が赤、高徳本線が緑と、連絡船からの乗り換え時の誤乗車防止で色を分けてました。

   -1982.8.5


・連絡船は夜中2時台にも運行がありましたが貨物車が主に積まれていました。高松駅で待機するDF50。

   -1982.8.5


・なんとか電線張ったよ、というときの高松駅。電化時に投入された121系は2両編成で中小私鉄のような感じで高松圏のラッシュ時はまったくの非力。写真左の111系を譲ってもらって(113系よりも古いですが)とりあえずは都市部らしい電車を走らせていました。特急はまだディーゼルカーでした。

   -1988.3.11


・このときはまだ部分電化だったので優等列車はディーゼルカー。写真は高徳線ホーム。急行は徳島までの「阿波」と牟岐線に入る「むろと」がいましたね。土讃線は高知までの「土佐」、高知以西への「あしずり」、予讃線は松山までの「いよ」、松山以西への「うわじま」、徳島本線の「よしの川」がありました。

      -1988.3.11



多度津

・晩年DF50は四国に集められ、貨物列車の牽引でがんばりました。結構昭和ないかつい顔してましたね。

    -1983.3.15


海岸寺~(臨)津島ノ宮

・超有名な撮影スポット。ラッシュ時の50系と貨物を狙いに来ました。

   -1983.3.15


・今では1時間ヘッドの特急しおかぜ号も車両がなくて貴重な存在でした。キハ181系はやっぱかっこいいなあ。土讃線側は「南風」号が走ってましたね。

   -1983.3.15


・急行は結構運行されてて、普通列車のほうが少なかった印象です。

        -1983.3.15


・普通列車はボロボロ気動車の混血編成ばかり。フリークエンシーなんて考えがなく、2時間に1本ほどの頻度で長編成の列車が走ってました。雨漏りする車両も結構ありましたね。

      -1983.3.15


・貴重な貨物がやってきました。こういう写真に限って変色してたりして。黒ワムに緑コンテナの国鉄らしい編成。懐かしい!

   -1983.3.15


・当時の四国は意外と貨物列車が走ってたんですね、まだ土讃線にも走ってましたし。

   -1983.3.15


・詫間寄りに移動して撮影。なんだかんだでここには1日いました。

       -1983.3.15


・お寺かなんかから俯瞰ができました。今もこのスポットはあるのかな?

      -1983.3.15


・当時の写真を撮る人たち・・ですが、実はこの人に買ってきたパンを取られたんです!かばんからぽろりと落ちて探していたらこの人が・・・。昔はコンビニがなかったので大きめの駅前のパン屋で食料調達をいないといけなかったんですね。空腹で死にそうでした~。しかし食い物の恨みは恐ろしいもんで、結構まだ覚えてるんですよねぇ。しかし拾った食べ物を食うなよ~。

   -1983.3.15


伊予土居

・通過待ちかなんかで撮ったんでしょうね、記憶にありません。国鉄時代の四国の駅名標って文字が結構安っぽいものでした。

   -1982.8.5


伊予北条

・まだ車扱の貨物を取り扱ってたんですね、列車交換待ちで撮った一コマ。これくらい古くなるとさすがにたいていのネガは変色しています。

   -1982.8.5


伊予長浜

・これ以降は電化対象外の区間のご紹介。当時は内子線のバイパスがなく、優等列車は長浜まわりで運行されてました。このあたりは海が広がる車窓がきれいんですよね。

   -1982.8.5


伊予大洲

・キハ54とキハ32の並び。導入時は予讃線がオレンジ、土讃線が赤になってたかな?今はJR四国色のアクセントになってます。

   -1988.3.11


宇和島

・国鉄色のキハ185も普通にありました。いまや185系もこの区間では普通列車の運用だけですね。

    -1988.3.11


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