解説

近畿日本鉄道 東信貴鋼索線 信貴山下-信貴山は、現在の近鉄生駒線信貴山下から信貴山までのケーブルカーでした。

このケーブルは、朝護孫子寺などへのおまいりのお客さんが大半でした。正月やお祭りのときにはそこそこの乗客はあったものの、普段はがらがらの閑散路線でした。また、沿線の宅地化が進み、生活道路が分断されることから沿線からも評判がよくなかったと聞きます。参拝客も年々減少し、信貴山参拝のお客さんもほとんどが西信貴鋼索線を利用することなどから、存続意義なしと判断、廃止となりました。

廃止直前の沿線は、すでに途中の3分の1がニュータウン内を走る状態になっていて、なんかこれってケーブルカー?といった感じでした。廃止後の一部跡地は現在道路となっています。

このケーブルカーは正月の初詣でよく利用しました。近鉄信貴線と西信貴鋼索線で高安山、そこからお寺へ初詣をし、茶屋で一服、そしてこの東信貴鋼索線で帰りは山を下り、王寺から関西本線で大阪まで帰るというパターンでした。当時の関西本線はまだ電化されておらず、キハ35のボロボロ気動車が走っていました。

あまり廃線区間の写真がないので、近鉄生駒線の懐かしの車両と田原本線のなつかし車両をつけました。ちょっとババっちい写真で申し訳ございません。(再修正し,できる限りきれいにしました)

PHOTO GALLERY

■信貴山下-信貴山上

・ケーブルカーと並走する団地の道・・・うーん、すでに存在意義がなくなっていたような感じでした。

      -1983.8.28



☆近鉄生駒線

■菜畑-一分

・奈良線を走っていたお古が残ってました。

    -1983.4.29


■平群-竜田川

・サボから自動方向幕に変わっていく途上の時期でしたな。

    -1983.4.29


■東山-元山上口

・近鉄にも流線形が走ってた時代があったんですよねぇ。

    -1983.4.29



☆近鉄田原本線

■新王寺-大輪田

・今は冷房車が入りもっと近代化されました。当時はヤンキーが多くて無賃乗車する奴らの取り締まりに苦労するなんてニュースもありました。

   -1983.4.29


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