解説

旧線保津峡駅での列車交換シーン。 ひかりも止まる新幹線の駅があって、接続する幹線が非電化、さらにボロ客車が朝夕ラッシュ時の主役。1980年代後半にまだそんな路線が、なんと京都駅から発着していた・・・山陰本線の京都口はバブル期まで、ひどく遅れた区間が残っていました。

冷房の効いた阪急電車や京阪電車が京の町を走る中、ボロ客車、50系客車、キハ47中心のパワーなし非冷房気動車たちが発着するギャップは、かなり違和感がありました。

京都~園部までの全線複線電化が完了したのはこの2010年。もちろん電化はその前、1996年3月に完了してましたが、近郊電車並みの運行になるにはずいぶん時間がかかりました。

もともと、複線電化では紅葉で有名な保津峡がボトルネックで、嵯峨駅と馬堀駅を新線に変える工事を先行させ、京都~園部の電化と一部バイパス化を先行。1990年に113系を主とする電車が走りだしました。これまで冷房車がなかったので、沿線住民としてはかなりのグレードアップとなりました。

福知山~城崎(現:城崎温泉)までは福知山線電化時に先行開業しており、以降1995年4月に綾部~福知山が、1996年3月に残る区間の電化が完了し、京都~城崎温泉までの電化が完了しました。同時期に北近畿タンゴ鉄道宮福線の電化も完了し、電車特急が京都から城崎や天橋立に運行されることとなりました。

非電化時代は、ボロ客車天国で、門司発豊岡行きとか、京都発出雲市行きの鈍行とか、どこいくねん?的鈍行が多数発着。そう、夜行鈍行山陰号も走ってましたね。民営化前にさすがにボロ客車はキハ47と50系客車に置き換えられましたが、今のような、嵐山にJRで行く なんて発想はまったくなく、そんなことを言ってたら相当バカにされた時代でした。山陰号には3段寝台客車がついていました。

京都駅山陰本線乗り場も新駅ビル建設で大変貌。薄暗いホームからボロ客車が発着していた光景はまったく想像もできません。また嵯峨嵐山まで立体交差が進んで、とても昔の山陰本線とは思えない変貌ぶり。変わろうと思うとここまでできるんですね。


思い出

この区間の撮影は保津峡くらいであとはパッとしない風景の中を進むことから、あまり撮影に来なかった区間です。18キップの旅でも、鈍行山陰号はとても貴重な列車でしたが、夜行機能を急行だいせんに集約してからは京都から山陰本線に乗ることはありませんでした。

結局夜行ばかり乗ってたので昼の景色がまったくわからず、乗換で使っていた福知山や和田山以北のほうがイメージが強いですね。その福知山も高架化で昔の面影は微塵もなくなり、ここまで風景が変わるのかとびっくりしてしまいます。

PHOTO GALLERY

■京都

・今のホームとは全く違った風景。写真の留置線にはボロ客車がよく止まっていましたね。

   -1984.3.29

■二条

・高架駅になってしまった二条駅も貨物扱いがあったりしてちょっと大きな構内と渋い駅舎が魅力的でした。夜の写真で何かわからん写真になってしまってます。

   -1984.3.29

■保津峡(旧駅)

・列車交換駅として重宝されるも乗降客はハイカーが中心でした。バックに工事中の今の保津峡駅が見えます。

       -1989.2.21

・長い50系客車やキハ47の6連や8連、急行車両もごちゃまぜで、使える車両総動員という感じでしたね。

         -1989.2.21



■園部

・電化の前はこんなのどかな駅。園部では朝夕を中心に気動車の増解結を行っていました。

     -1988.8.6

■福知山

・すでに電化させていた城崎までの区間は福知山線カラーの電車が運行。当初は黄色に青帯という塗色でした。

   -1988.8.6

・地上駅時代はちょっとした車庫・機関庫といった感じ。客車もゴロゴロしてましたね。

   -1985.3.18  -1988.8.6



■和田山

・旧型客車一掃を図っている最中で、留置線に客車が溢れていました。

      -1984.8.18

■養父

・何気なく途中下車して撮った写真。DD51の2ケタなんていたんですね。電化工事がすでに始まっていました。

     -1984.8.18

◇鈍行「山陰号」

・晩年はボロ客は12系客車に置き換えられましたが客車3段寝台車はそのままで、夏場は冷房がなく座席車よりも環境が悪い状況でした。写真の宍道駅はまだこの雰囲気なのかなぁ。

    -1984.3.30

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