解説

美幸線は宗谷本線美深から東にある仁宇布の集落まで伸びる、戦後作られた新興路線でした。この路線は名前のとおり、美深から枝幸までを結ぶ路線として計画されましたが、その後の国鉄赤字問題で建設は中断されます。

もともと沿線住民が少なく、さらに目的の途中で路線が行き止まっているので、毎回国鉄赤字ローカル線リスト上位3位に入っていました。

空気を運ぶ列車は国鉄職員の研修列車と揶揄され、国鉄改革が叫ばれていたときは、不採算路線の象徴としてよくテレビで登場しました。その赤字を逆手に沿線の美深町長が観光アピールのため東京まで来たこともありました。

私が乗車したとき、車内は鉄道マニアがほとんどで、地元のお客さんはほんの2~3人だったと思います。大阪環状線とほぼ同じ距離(500メートル短い)の路線で、この数では廃止はやむを得ないでしょう。

路線は美深を出ると原野をひたすら走ります。沿線にはこれと言った大きな集落はなく、終点の仁宇布も十数軒の小さな集落があるだけでした。観光地も松山湿原ぐらいで(といっても仁宇布からかなり距離がある)特に何かがあるというところではありませんでした。 廃線間際は1日4往復走り、キハ22の単行で運転されていました。

現在線路跡は草木が茂り、築堤や鉄橋跡が見えなければわからなくなっています。ただ、終点の仁宇布付近はトロッコ王国として路盤が活用され、廃線跡を使った自走式トロッコを走らせているそうです。(詳細不明)仁宇布駅跡には、鉄道が通っていたという石碑も立っています。

写真は美幸線に加え、美深駅での駅撮り写真もつけました。荷物列車に客車1両をつけた列車が、当時宗谷本線で活躍していて、名寄から美深までそれに乗っていったのを覚えています。

PHOTO GALLERY

■美深

・美幸線ホームは駅舎向い側ホームにありました。線名とは裏腹に大赤字路線でした。

   -1985.3.9

・キハ22の単行運転が基本形。当時ワンマンはなく冬の除雪もあってそうとうなコストがかかっていたのでしょうね。

   -1985.3.9



■仁宇布

・「にうぷ」といういかにもアイヌ語由来の駅名。計画路線の途中駅だったので小さな集落だけのさみしいところでした。訪問時は折り返し時間がわずかで、かつ猛吹雪だったのでちらっと列車から出て終わりでした。

    -1985.3.9



■おまけ:国鉄宗谷本線 美深

・当時荷物列車に客車1両がつく客レが宗谷本線を走っていました。今では信じられない光景ですね。

   -1985.3.9

・美深駅を発車する急行天北号。

    -1985.3.9



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